

聖家族のエジプト訪問の旅は、エジプト史の中でも、大変重要な意味をもっています。それはパレスチナでの難を逃れるためヨセフによる天の言葉に導かれ始まりました。聖母マリアは幼いイエス・キリストを腕に抱いてロバに乗り、ヨセフがロバの手綱を引いて歩を進めました。
エジプトまでの道のりは険しく、決して容易なものではありませんでした。砂漠や高原、谷を越え、生命を脅かすいくつもの危険に直面しましたが、一歩づつ歩を進めていきました。
また灼熱の太陽が照りつける砂漠や厳しい夜の寒さ、喉の渇きや食料不足など不測の事態を絶えず懸念し、幼いイエス・キリストの健康状態が心配される、聖母マリアにとって不安は尽きない旅でした。
コプト教の歴史に関わる最も信憑性の高い図書の一つであるセオフィロ神父(アレキサンドリアの教皇の一人)によって書かれた書物によると、聖家族がパレスチナからエジプトへ渡った当時、旅人のルートは3つあったと言われています。しかし、聖家族はそれらのどのルートもとらず、独自のルートを進みました。このことは、聖家族がユダヤ王ヘドロの邪悪な圧政から逃れようとしていたことを考えると明らかで、聖家族が神と天使に導かれエジプトに進んだことがコプト教の殉教史の中に言及されています。

古代の祭壇石・
ムハラク修道院・
アシュート
聖デミアーナの聖画像・
アブセフィーン教会
・オールドカイロ

聖家族はベツレヘムからガザ、そしてエル・アリシュ(El-Arish)の西約37kmに位置するエル・ザラニーク(El-Zaraniq)という特別保護地域に進み、シナイ半島の北部を通りファルマ(Farma)からポードサイド(Port Said)へ進みました。さらに現在のシャルケイア県(Sharqiah Governorate) ザガジグ市(Zagazig)カイロの北西約100kmに近いテル・バスタ町(Tel Basta)に入りました。イエス・キリストはこの町に水を湧き出させ泉を作りました。しかし、聖家族がこの町に入ると数多くあった偶像が全て大地に倒れ落ちたため、町の住民は聖家族に辛くあたり、聖家族はテル・バスタ町を後にして南へ向かいました。
次に訪れたのはカイロから10km程のモストロド(Mostorod)です。ここは当時アル・マハムマ(Al-Mahamma)と呼ばれていました。この地名は聖母マリアが幼いイエス・キリストの身体を清め、またイエスの着ている服を洗ったことから付けられました。聖家族はパレスチナへ戻る際、再びこの地を訪れます。今でもイエス・キリストが湧き出させた泉を見ることができます。
聖家族はモストロドから北東へ向かいます。

聖母マリア教会の 聖画像・
モストロド
地下礼拝室への階段・
聖母マリア教会・モストロド
教会の井戸
カイロから55km程のシャルケイヤ県(Sharqiah)ベルベイス町(Belbeis)の木陰で休息をとります。後にこの樹木は聖母マリアの木と呼ばれるようになります。この町も帰りに通っています。
ベルベイスを出発して聖家族は北西に向かい、ナイル川を渡りメニエト・サマノード(Meniet Samannoud)の町に入りました。聖家族は住民に歓迎され、イエス・キリストは住民にご加護を授けました。この町には聖母マリアが粉を曵く時に使ったとされる円形の大型花崗岩製の臼があります。またイエス・キリストが祝福した泉もあります。
サマノードの町から聖家族は、北西方向のベロロス(Burullus)地方へ向かい、サクハ(Sakha)の町へ入りました。現在はカフル・エル・シェイク(Kafr El-Sheikh)に属しています。この町にはイエス・キリストの足型が付いている石があることから、コプトと呼ばれています。この石は盗難を避け、何世紀にもわたり隠されていましたが13年前に発掘されました。聖家族の旅の行程でサマノードからサクハまでの途中、ガルビア県(Gharbia)やカフル・エル・シェイク県(Kafr El-Sheikh)などの多数の町を通ることになりますが、幾つかの文献に、バルカス(Balqas)をとったことが記述されています。

石に付いたキリストの足跡・
聖母マリア教会 サクハ カフル・
エル・シェイク
マルタイル・アバノブ教会内部
サマノード ガルビーア
サクハの町から聖家族はナイル川を渡って、ワディ・エル・ナトルーン(Wadi El-Natroun)に入りました。そしてイエス・キリストと聖母マリアはこの地に恵みを授けました。
その後、聖家族はカイロの方向へ向かい、ナイル川を渡り、マタレイヤ(Matareya)とアイン・シャムス(Ain Shams)に入ります。両地ともカイロ市内から10km程の距離にあります。当時アイン・シャムスには多くのユダヤ教徒が住んでおり、ユニアスというシナゴーグ(ユダヤ人の礼拝堂)がありました。マタレイヤには聖家族が休息をとったと言われている木陰があり、この樹木も聖母マリアの木と呼ばれています。また湧き出た泉をイエス・キリストが飲み、聖母マリアがイエス・キリストの衣服を洗った所からは、香リの良い植物が芽生え、香料の原料になっています。マタレイヤとアイン・シャムスを後にした聖家族はオールドカイロへ進み、途中ザトゥーン(Zeitoun)で休憩をとりました。
聖家族はザトゥーンからオールドカイロに入る途中、聖母マリアの古い教会もしくはエル・エバウェイヤ教会を通りました。幼いイエスの命を狙う者から逃れるため、洞窟に身を寄せ、後にその洞窟内にアブ・セルガ(Abu Seruga)教会が建てられました。その教会があるバビロン地区には聖女マリア教会、聖バルバハ教会、聖ジョージ教会、聖母マリア教会をはじめ、聖ジョージ女子修道院など多数の教会や修道院が建てられています。

聖母マリア教会・ザトゥーン
聖家族はカイロ近郊のマアディ(Maadi)へ向かい、現在聖母マリア教会が建てられているアル・アダウェヤ(Al Adaweya)から船で南エジプトへ行きました。マアディは当時エジプトの首都メンフィス(Menphis)地区にありました。現在もなお、聖家族が通った石段は、教会の中庭を通り神聖な場所としてみなされています。
1976年3月12日、コプト教ではバラムハット月(Baramhat)3日目の金曜日、教会に面したナイル川水面に聖書の予言者イサイアーの19章25の「エジプトの民よ」のページが開かれて浮いているのが発見されました。この聖書は聖母教会のガラスケースに納められ、見学者は見ることができます。

聖デミアナの聖画像・
聖母マリア教会 マアディ
古代の石段・
聖母マリア教会
マアディ
聖家族はアシュネイン・エル・ナッサーラ(Ashnein el Nassara)の西10kmに位置するアル・ガーノウス(Al Garnous)村、アル・ガーノウス修道院の敷地内に到着しました。聖母教会の西外壁には、聖家族が利用した深い井戸があります。
その後、聖家族はアバイ・イッソウス(Abai Issous)と呼ばれるベニ・マザルの西17km、アル・バフナッサ(Al Bahnassa)の東、サンダファ(Sandafa)へ向かいました。

アル・ガーノウス修道院の井戸
マガーガ
聖母マリア教会内部
アウ・ガーノウス修道院 マガーガ
バフナッサを後にした聖家族はサマロウト(Samalout)の町へ南下しました。そしてナイル川を東に向け横断しました。メアディヤット・ベニ・カリッド(Meadeyat Beni Khaled)の南2km、サマロウトの東ガバル・エル・タイール(Gabal El-Tair)(鳥の山)には、現在聖母マリア修道院があります。このガバル・エル・タイールの地名は幾千もの鳥が集うことに由来しています。聖家族は古代教会内にある洞窟で休息しました。コプト教の言い伝えによると、聖家族に向かって大きな岩が落ちてくるのを見たイエスが手を伸ばし止めたことから、ガバル・エル・タイールはガバル・エル・カフ(Gabal El-Kaf)(手の山)とも呼ばれています。
聖家族はガバル・エル・タイールの南を通ると、月桂樹がナイル川に沿って茂っています。そのうちの一本がイエスにお辞儀をして祈ったと言われています。そしてその木はアル・アベド(Al Abed)(崇拝者)と呼ばれています。

アル・アベド(Al Abed)(崇拝者)の木
ナズレット・エベイド ミニア
聖家族はナイル西岸へ渡り、アル・アシュムヌイン(Al Ashmounein)、別名ヘルモポリス・マグナ(Hermopolis Magna)の町へ向け、歩を進めました。
聖家族はコウシア(Qoussia)の西7kmのメイア(Meir)、別名メイラ(Meira)では、住民に歓迎され、イエス・キリストは住民にご加護を授けました。
聖家族はガバル・カスカム(Gabal Qussqam)(カスカム山)へ向かいました。カイロの南327kmのアシュート州にあるガバル・カスカム(Gabal Qussqam)の麓の西側に、アル・ムハラク修道院があります。聖家族は6ヶ月以上、ここの洞窟に滞在しました。後にこの洞窟には聖母教会が建てられました。その教会は修道院の西側に位置しています。幼いイエスがよく祭壇の石に座っていました。この場所は、聖家族が滞在した中でも重要な場所の一つで、第二のベツレヘムとも呼ばれています。
アル・ムハラク修道院に滞在中のある日、ヨセフの夢に天使が現れてこう言いました。
「立ち上がれ。幼な子とその母を連れてイスラエルの地へ行きなさい。幼子の命を狙う人々は死んでしまった」(マタイの福音書第2章20と21)

古代の要塞
アル・ムハラク修道院
聖母マリア教会入口
アル・ムハラク修道院
聖家族は来た時とは別のルートを通って帰路を進めました。
アシュートの南西8kmドロンカ山へ行きました。聖家族によってご加護が授けられ、頂上にはドロンカ修道院が建てられました。
パレスチナへの帰路、聖家族はオールドカイロ、マタレイヤ、マハンマ、シナイを通りました。聖書の歴史では、最終的に聖家族はナザレス村で落ち着きました。3年以上に渡るベツレヘムからナザレスへ戻る旅は、2,000kmにも達しました。